剣の眞風

鹿島神伝直心影流剣道が、流祖松本備前守尚勝によって開かれ、十五代、山田次朗吉先生の遺命を承け、十七代、大西英隆先生に及び、日本の有史以来の大敗戦、又、日本を含む世界史上未曾有の一大転機に際会し、ここに我が日本民族が、神武肇国以来の「八紘一宇」の大道に則り、世界維新の大業に率先参画し且、救世の扉を開くべき大任に当らねばならぬこととなった。我が日本の国家存亡の命運も、実にこの大任遂行の成否と不二一体の関係にある。而して、その成否の要訣は、一に、我が日本古来の「惟神の大道」(神ながらの道)の実践躬行、即ち、日の本つ心の百錬自得による「和魂振起」に帰するのみ。

夫れ剣道は我国古来武士道の粋たり。其の理深遠にして応用の道広く、利害の関係も亦大なり。故に之を学ぶ者は剣下に心性を悟り、己を責めて人に勝つべき決断力を修養し、形体の運用は自然にして刀形に適い剣を用いて乱さず、理非を分別するは剣道の本然なり。
之に適う者は無作の妙用を発するに至り、未萌を制し、不立に勝ち、彼我の虚実を察し、生殺与奪の機を知り、変化応用の法理を自得し、上、剣の道に超出す。
学物剣道の枢紐を失わず、軽忽なく誤認なからんことを切望す。

 
山田次朗吉

形と術理

鹿島神伝直心影流に伝わる形を掲載しています。

剣の大道

大西英隆先生剣道随筆より抜粋して掲載しています。

名人達人語録 教訓

鍵吉は男谷道場でどのような稽古をしたのであろうか。現在の剣道とは稽古量において、比較にならなかったのはたしかである。
毎日稽古をして、一日の稽古時間は四刻(八時間)というのが、ふつうであったといわれる。
直心影流の薪割り稽古というのは、当時有名であった。竹刀のうちこみが、薪を割るときのように全力をふりしぼっておこなうので、まともに打たれると面金が凹むのである。
鍵吉たちは腕を鍛えるために振り棒というものを振った。長さが六尺で、重さが三貫匁である。
柄の部分のながさがどれほどであったかは分からないが、刀の柄とおなじ七、八寸であれば、現代の人間ではまず振れるものではなかろう。
これを振れる者は、そうとう剣道で手首、足腰を鍛えた者である。ゆっくりと上下左右に振るのが精一杯で、宙にとめることはどうしてもできない。とめようとすれば、手首をいためると思われる。
それを毎日そろそろと振るだけで、体にすごい力が湧き出るといわれている。せいぜい三百匁の日本刀を振るときは、紙のように軽く思えるのである。
三貫匁の振り棒とはどのようなものか、おそらく見ただけでも辟易するにちがいない。三貫匁の棒を振ると遠心力がかかり、手もとにかかる力は六倍といわれる。
鍵吉はその棒を五百回、千回、二千回と振ったというが、どれほどの体力があったのか想像もできない。
腕力だけで振れば肩が抜けるので、気合い、気力で振ったといわれているが、おそろしいものである。
鍵吉の上膊部は、荒稽古によって腕回りが五十五センチもあったといわれるが、それほどの太い腕は現代のプロレスラーにもめったにみられないものであろう。
後年、鍵吉の弟子の山田次朗吉が、師の用いていた十五貫の振り棒を、二度振って気絶し、数日後に振り慣らしたといい伝えられている。
そのような荒稽古で腕力をつけた者同士が、直心影流独特の頑丈な竹刀で打ちあうため、まともに打たれれば面金が曲がってしまう。
籠手を打たれ、骨に疼きがのこり、三日ほどは水で冷やしきりにして、夜も眠れなかったという話がのこっているが、面を打たれれば気が遠くなるなど、めずらしくもなかったことであるらしい。
鍵吉は、面を打たれてもこたえないように平生から柱に頭を打ちつけて鍛えていた。くりかえし打ちつけているうちに、しだいにくたびれてくると、両手で柱をかかえてやったものであるという。
これを頭を棄てるというのである。頭を棄てる訓練を重ねるうちに、特製の頑強な竹刀でどれほどはげしく頭を打たれても、脳振盪をおこさないようになる。
頭を棄てるうちに幾度も気絶をする。ひるまずくりかえせば、ついに柱が凹んでくる。そうなってはじめて一人前といわれたものであるらしい。



慮りすでに定まれば 進退疑いなし
平山子龍は、その著書『剣徴』において、司馬光の「慮りすでに定まれば 進退疑いなし」を武道の精神に引用し、次のように解釈している。
「必死の覚悟を決めたなら、敵を恐れる思いは消え去って、勇猛果敢な気持ちが自然に湧き出てくる。ここにおいて『進』も『退』もすべて法則にかない、臨機応変の働きが出て疑う心のわずらいはなくなる。これが『進』である。要は決断であり、あくまでも敵を倒すことにある。これに対し、『退』とは敵の強さにひるんで『退く』のではなく、敵を倒して退く意味である。
「形」や「組み太刀」の練習に於て、ひとつの形が終って、互いをにらんで後ずさりして礼に終わる。この心境こそ「退く」ときの気迫であろう。なお、司馬光(1019~1086)は、中国北宋時代の政治家・学者で、通称を司馬温光といった。
彼は中国戦国時代から五代末(954)までの歴史を編年体で記した、歴史書として最もすぐれた『資治通鑑』の編者として今日に名を残している。『資治通鑑』に流れる思想は、君臣の義を明らかにして政治に反映させようとするものであった。
司馬光に対抗する政治家として王安石(1021~1086)がいる。王安石は唐宋八大家のひとりで、国家財政の再建と軍備の充実をはかる新法(財政政策)を実施した。しかし保守派の反対や官吏の不正により失敗に帰してしまった。司馬光は保守派(旧法党))の首領として王安石の失脚後政権を担当するが、数カ月後に没した。彼の遺した「慮りすでに定まれば進退疑いなし」の本来の意味は、熟慮したうえで意志決定したならば、どう行動するかという身の処置については悩みもきえ、身の振り方は覚悟できている、という意味である。主君や上司に間違った考えや過失がある場合、これに諌言することは、大変勇気のいることかもしれない。日常的な、ささいな間違いをいさめるならまだしも、それがより本質的で大きな事態に関わることの場合は、主君・上司の怒りを買うことになるし、疎んじられてしまうことにもなる。
徳川家康は「人の上に立つものは、家臣の諌言をすなおに聞けないようであれば、国を失うことにもなる。家臣の思い切っての諌言は、勇者であり、忠臣の証である」と述べている。
諌言は主君、または上司の考えや間違いを否定するという気持ちがあるからためらい、消極的になる。しかし「忠臣」は「忠信」に通じ、まごころをつくし、いつわりのない気持ちで諌言すれば、これは受け容れられよう。熟慮のうえで諌言することを決めたならば、身の振り方は、おのずと決まってくる。受け容れられず、冷遇されたならば、虚心坦懐し、やがてくる春を待つ。正しい事は必ず評価される日があるのが、世の道理である。

文久三年春、将軍家茂は三千人の共奉をしたがえ、上洛する。京都には攘夷決行を呼号する長州藩の庇護をうけ、諸国からあつまった千余人の過激浪士が、暗殺、放火を日常のこととしていた。
無警察状態となっている京都にむかう行列に鍵吉はくわわる。彼は、飾りけのない性質を、将軍に愛されていた。
家茂は事に応じ、「鍵吉はいずれにおるか」と、君側に呼ぶほどである。
鍵吉は家茂に命ぜられ、槍術の名人高橋泥舟と試合をしたことがあった。刀と長柄の武器とでは、間合いにおいて刀が不利である。槍は刀より五尺は間合いがひろい。
そのため刀をもつほうは、槍にむかえば七分三分で不利であるといわれていた。たやすく槍の間合いのうちへ踏み込めないからである。
槍のはたらきには、切り、はね、突きがある。上からうち切って突き、下からはねあげて突く、千変万化の槍先をかわさなければ、相手の体に触れることができない。
天下の名人といわれた泥舟を相手に立ち合った鍵吉は、上段の構えで槍先をかわして手元にふみこみ、見事にお面一本をとったといわれている。よほどの手練でなければ、泥舟の槍先をかわすことはできなかったにちがいない。
強敵に勝って名を挙げた鍵吉は、京都滞在中に、二条城中の庭園で遣い手天野将曹と試合をおこなった。
新規お召抱えの天野は、左上段の構えをみせた。左上段は鍵吉の得意技であった。鍵吉はかまわず相上段にとり、たがいににらみあう。
新陰流では上段を雷刀と呼ぶ。どこに落ちるかわからない太刀筋であるためである。五間の立ち合い間合いから、二人は軽やかな足取りで前へ出た。
鍵吉は天野の打ち込みを先に受けたが、竜尾の技で受け流して後の先の面をとった。
「参った」と敗北をみとめるはずの天野が、無言で立ちむかってきた。将軍家茂の面前で、新参の身としてなんとか勝利を得たいのである。
こんどは鍵吉が切っ先下りの平青眼にかまえた。天野が前に出てきた途端、鍵吉は彼の喉を突き抜くような諸手突きを見舞った。
さすがに強情我慢の天野も、仰向けに芝生に転倒し、完敗を認めざるをえなかった。
のちに天野は言う。
「榊原の打ち込みは、面でも籠手でも、ぐわんと鉄棒で打ち据えるような、もの凄さであった」

男谷精一郎信友は、寛政十年(1798)幕臣男谷新次郎信連の嫡男として生まれたが、二十歳のとき同族の男谷彦四郎忠果の二女の聟養子にむかえられた。
養父彦四郎は江戸で有名な金貸しで七十万両の巨富を築き、からす金検校の異名をとった男谷検校の孫である。
信友は十五歳のとき、四谷の平山行蔵子龍の門に入り、忠孝真貫流という野太刀の流派を学んだ。
流祖は上泉伊勢守の弟子、丸目蔵人佐に師事し心貫流をひらいた奥山左衛門大夫である。
忠孝真貫流の勢法目録は九条につきる簡単なものであったが、その道場「兵原草蘆」は地獄稽古で名高かった。
平山行蔵の剣談には、独特の見識があらわれていた。
「剣術の要諦は、敵を打つ一念をまっしぐらに敵の心に貫通さすことにある。すなわち必死三昧である。よく戦う者は人に致して人に致されることはない。致すのは主で、致されるのは客である」
敵の打ちこんでくるのを受けたり流したりする稽古は、人に致されるものである。
このような稽古をいくら積んだところで、受け流しの名手となるばかりで敵を制する呼吸はつかめない。
大軍勢にうちまじっての合戦に際し、外すとか受けるとかの小技は通用しない。ただ精一無雑に餓えた鷹のごとく、怒れる虎のごとく、疑惧の念なく突撃してようやく妙境自在に達することができるとするのである。
受けて切り返し、流して打ちこむなど剣の順序をたてれば、自分より巧者には敗け、下手な者には勝ち、同等の者とは相討ちなどという、自らの力倆を限定する目安ができてしまう。そのようなことでは一生をかけ工夫しても敵に超越する心境を得ることができないと彼は説く。
「禅堂に入り心胆を練り、読書して理をあきらかにしたところで、空識にすぎない。実地にあたり白刃下に身を挺すると、意気ごみはたちまちおとろえてしまう。当流では敵にあたって勝ちを求める念を持たず、敵の刀刃をまえにして精神がくじけないよう、心胆をかためさせるのを、鍛錬の目的とするものである」
そうとう独断と偏見の目立つ意見ではあるが、武人は精神を鍛えなければならないという、要な真理をついている。

幕末の剣聖
幕末剣客の中で、誰が一番強かったかと問われたなら、私は、男谷下総守信友と、答える。
大石進を赤ん坊扱いにしたので、その強さがわかるが、少しも、世間へ出ないし、花々しい試合などしなかったから、あまり、人の口に上るような話がなく、したがって、時日が経つと、誰も、この人のことを言わないが、千葉周作を評して
「千葉も、あれまでになるとは、相当修業をしておるであろう」
「左様でござります」
と、頭を下げているだけであった。千葉を、この程度に見ても、誰も、男谷に不服は言わなかった。千葉、桃井、斎藤と、一口にいわれるが、この三道場の上にあって、別格扱いにされていたのが、この男谷である。
千葉、桃井、斎藤は、町道場の雄であるが、幕府直属の道場としては、神田の講武所があったが、ここの所長が、この男谷下総守であった。
この人の強さについては、もう一つ話が残っている。この人は、妻が死んでからは妻をとらず、絵と、書とを友とし、清浄な一生を送っているくらいに、人格的にも、立派であるが、試合をすると、最初の一本は、必ず自分がとる。そして、次の一本は、必ず対手に勝たし、第三の一本は、また自分がとる。この二対一の勝負が、弱い者に対しても、そうであるし、強い者に対しても、そうであるし、それからまた、その試合振りが、弱い者に対するのと、強い者に対するのと、同じことで、どれだけ底力があるか、とうとう一生の間わからずに終わってしまった。
門人共も、外の人も、どうかして、二本をとろうと、そればかりを心願していたが、誰一人とる者がなかったし、「一つ、汗を出さしてやろう」
と、かかって行っても、軽くあしらわれて、どうにも、本当に、力を出さない。本当に、一生懸命なのか、いい加減にあしらっているのか、とにかく、どんな強い者が、かかって行っても、弱い者が扱われるのと同じように、軽く扱われてしまうから、強さの底が知れなかった。
家は元来小十人組で、徳川時代に有名な金持、男谷検校の末であった。槍は宝蔵院、剣は、直心影流の団野真帆斎に学び、師の亀沢町の道場を引き継いでいた。剣術が強いのみでなく、親類の勝海舟に、「もう、剣術の世でなくなるから、お前は海軍のことを学べ」
と、すすめたくらい、見識もあったし、竹刀を現今使用している竹刀の標準尺、三尺八寸と決めたのも、この男谷精一郎である。従って、早く一家を為していて、直心影流は、長沼派、藤川派、男谷派と分れていた。
水野越前守が、武道奨励のため、多くの剣客を招いて試合を見た時、ほとんど、都下の剣客が集ったが、男谷の技は、群を抜いていた。それで、安政二年、幕府が、講武所を作ると共に、その頭取に命じられ、文久二年下総守となって、御旗奉行を兼任した。かく大名の師範役となった人が、男谷の門下から、二十余人出たというから、大したもので、とても、千葉や、桃井や、斎藤の及ぶところでない。
床の間には年中、諸葛孔明の肖像が、かかっていた。一度も、妻や、下僕を叱ったことがない。
座敷の掃除は、きっと自分でするし、刀は、試験済みの品の外、決して帯びるということなく、刀鍛冶の名だけで、その刀をさすということがなかった。そして、絵画は、玄人の域に達しているし、書は、兄が書家であるが、その血つづきで、上手であった。
わずか小十人から、とうとう三千石になったが、寛永の昔は知らず、幕府の衰勢時代に、剣一本で、百俵の小十人から、三千石を領した人は、この人だけである。元治元年、六十七歳で死んだが、時の人は「剣神」と綽名していた。
笑うに堪えたり六十七年の夢
戯楽一場、悲嘆空し
安命何んぞ憂えん生亦死
喬松明月清風有り
というのが辞世である。門人には、有名なる島田虎之助が出ているし、榊原鍵吉、横川七郎、三橋虎蔵の三傑も、また、男谷の門下生であった。
見山、島田虎之助が、江戸の道場を荒らして、男谷の本所亀沢町の道場へ行ったが、立合うと、男谷の気合に押されて、道場の羽目板へ、もう押しつけられてしまったように感じ、脂汗が盛んに出るだけで、思わず知らず、道場へ、平伏してしまったと、伝えられている。人によっては、天保、弘化の三傑として、男谷、大石(進)、島田を挙げるが、男谷は、いささか、段がちがう。忠実に、幕府に仕えていて民間剣客の如く、華々しい活動をしなかったから、人の口に上らぬが、まず天下第一の剣客であろう。

 ~直木三十五 『日本剣客伝』より~

【敵より遠く我より近く】  橋本統陽 「武道宝鑑 剣道秘訣所収」
『武道宝鑑』は、昭和九年十一月、皇太子殿下誕生を奉祝して行われた昭和天覧試合を記念して、当時の超一流の柔剣道の武芸者によって執筆編集された昭和の武道体系集である。
昭和の剣豪、野間清治、高野佐三郎、中山弘道、柔道の加納治五郎、宗像逸郎、三船久蔵らがそれぞれの武術の極意を語り、さらに『五輪書』『不動智神妙録』はじめの名書が収められている。そのなかの、現代の剣道秘訣のなかに、剣道教師の橋本統陽という人が次のように「間合いの妙」について述べている。
「剣道の間合いというのは、距離と時間と虚実の総称であり、撃突する間隔のことである。
距離とは、剣をとって敵と相対した時、一歩踏み込めばすぐに相手を撃突し、一歩退けば相手の剣を外すことができる。その距離は一足一刀の間合いで普通六尺(約一メートル八十センチ)であるが、刀の長短、進退の遅速、各人の体格および精神の鍛練、技のサービスによって異なり一定しない。
時間とは撃突するとき、剣の運用に必要とする時間と、身体を運ぶのに要する時間をいう。
つまり相手に打ち込もうとするときに剣を振り上げて撃ちおろすその時間のことである。これらの時間は、敵と自分の距離を接近させ、剣の届く所まで、体を前進させるものであるが、これに要する時間がすなわち、間合いであり、この時間の各人の技量の習熟等によって違う。
虚実とは、精神の作用のことで、精神の緊張と弛緩によって撃つべき万人のことをいう。剣道では『敵より遠く我より近く間をとれ』と教えている。これは姿勢についても構えについても言うことができるが、多くの場合、心持ちによるものである。すなわち虚をつき実で押さえる場合である。
相手の出はな、引きはな、あるいは、技をかけるとき、技をかけ終ったときは、実から虚に、虚から実にかわる瞬間で、撃突に最も大切な間合いである。すなわち、実をもって虚を撃つ。このときに相互の距離に甲乙はないが、優劣の面からみれば、『我より近く敵より遠い』ということになる」
間合いについては、自分に近い所を「自分の間」といい、相手に近い所を「相手の間」という。相手が自分の間に入れば勝ちは自分にあり、自分が相手の間に入れば敗けとなる。
剣術の勝敗は、武器の長短や力量ではなく、すべてこの間合いによって決し、剣道の修行はすべて間合いの研究である、と橋本統陽は述べる。間合いの具体的な例として橋本統陽は、上泉伊勢守が賊を捕らえる際に、僧侶に変身して賊の人質として取った子供に「食を与えよ」と言って接近し、握り飯を投げ渡し、賊の心の虚に乗じてこれを捕らえたのも虚実を利用した間合いであったと述べている。
静より動に、動より静に変化するときに生じるのが「間合い」である。この間合いを知るには、人間の欲望の虚実を知ることが重要であろう。
また、個人や組織がアクションを起こす瞬間、またこれを終えるときに、ひとつの間合いが生まれ、第三者がこれに対応するのに最も都合のよい時間ができる。その動静に注意し、自分の陣営からアクションを起こすことも、ビジネス戦略では必要であろう。要するに、行動を起こすのに最も都合のよいタイミングをはずさないことだ。
『淮南子』は、前漢時代の淮南(安徽省)の王劉安(淮南子)の編である。王の下で食客となった学者、思想家たちのさまざまな学説、知識などを編集してつくったもので、その思想は、老荘思想の色が濃く、秦の焚書坑儒の厳しい思想統制の時代に反して、百科全書的にすべての思想や学説を受容しようとする立場にある。内容は政治、思想から天文、地理、歴史、そして処世など人事一般、風俗・神話などに及んでいる。「動くに時を失わず」は人間篇の中にある。
これは、チャンスを失えばサクセスにはつながらないという意味である。

《稽古の方針》
守 …形を徹底的に身に付ける。師の教えを忠実に学び、知識の基本を習得する。
破 …基本の形以外の異なる(流派の)形を取り入れる。それらと自流の形とを照らし合わせて、研究模索し、既存の形を破る。経験と鍛錬を重ね、教えを土台としながらも、自流なりの真意を会得する。
離 …鍛錬・修行を重ね、既存の形に囚われることなく、独自の新しい形を確立する。学んだ形や知識にとらわれず、思うがままに至芸の境地に飛躍する。
そして原点回帰する。永劫循環。
「守りつくして、破るとも、離るるとても、本(もと)を忘るるな」~千利休~

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活動報告

有志で武士の理想像を追い求めた
江戸時代の剣豪・平山行蔵先生の墓参をしました。
折々に活動を掲載していく予定です。