令和8年3月8日 快晴
「一剣入魂、一献入魂。
人生、酔って候。」
大東流合氣柔術米田師範による小野派一刀流切り落しの指導です。
世が世ならば他流の奥義を間近で見聞することは皆無に近いでしょう。
大東流中興の祖武田惣角先生が当流榊原鍵吉先生門下であったご縁がこの機会へとつながったと思います。
一刀流は古来から、切り落としに始まり切り落しに終わると教えるほどの必殺必勝の烈しく強く正しい技です。
切落しは相手の太刀を一度打ち落としておいて、改めて第二の拍子で相手を斬るのではない。相手から斬りかかる太刀のおこりを見抜いて、少しもそれにこだわらず、己からも進んで打ちだすので、姿においては一拍子の相打の勝となるのである。
即ち、己が打ち込む一つの技により、相手の太刀を切り落しはずして己を守り、その一拍子の勢いでそのまま相手を真っ二つに斬るのであり、つまり一をもって二の働きをなすのである。
正しく打つことが同時に相手の太刀をはずすこととなり、相手の太刀をはずすことが同時に相手を斬ることになり、一をもって二つの働きをなすところを教えるのである。
それでは相打ちでありながら相手の太刀を切り落してわが勝ちになるにはどうしたら良いのか、その心得は、まずわが心を自ら切り落とすのでなければならない。
わが心を切り落すというのは、死にたくないとか打たれたくないとかいうわが心を切り落すことである。即ち相手からわが面に打込んでくるのをみると、その危険を恐れるわが心をまず切り落し、よし来いと必死の覚悟と充分な気合とをもってゆくので初めてわが心の鋭い切っ先が太刀の鋭い切っ先となって働いて、相手の太刀を切り落して無効となし、わが切っ先が生きて働きわが勝ちとなるのである。
実に有意義な体験でした。
稽古場から平山行蔵先生が眠る永昌寺を臨む。
「わが講武実用流では、最初は短刀を用いて稽古するが、これは気持ちを引き締めさせるためである。短刀を持って突こうか、斬ろうかとためらっているようでは、たちまち相手に不覚を取るのは必定。敵の刀など気にせず、斬らば斬れという覚悟で、体全体でぶつかっていけ。心臓から入った短刀の切っ先が背中に突き抜けるくらいの勢いで突進しなければ、なかなか刀は敵の体には届かない。
まず、敵に真正面からぶつかっていく気迫を練ることが肝要じゃ。この気迫がなければ、真剣勝負で敵を倒すことはできない。
講武実用流ではこの気迫を養うため、最初のうちは短刀を持たせて稽古をさせる。
ひごろ短刀で稽古しておれば、いざというときは、自分の体と力につりあう武器でさえあれば、長さはどんなものでも使いこなせる。あとはただ、満身の力をこめて撃ちこみ、突くだけでよい。
講武実用流では、防具を身に付けて竹刀で撃ち合う試合はおこなわない。平生の稽古を、試合のつもりでおこなう。
素面、素籠手のまま、いっぽうは全長一尺三寸(約四十センチ)の短い竹刀を持ち、もういっぽうは三尺三寸(約一メートル)の長い竹刀を構えて稽古する。短い竹刀を持った者は、相手が撃ってこようが突いてこようがけっしてひるまず、ここぞというとき、思い切り踏み込んで、相手の胸板を突け。
初めは、ひたすらこの稽古をする。この稽古が必ず実戦に役立つことを信じろ。けっして迷うな、けっして疑うな。よいな。では、始め」
~ 『豪の剣(剣豪平山行蔵)』より~
~「本所の堅川と深川の小名木川をむすぶ六軒堀川の南端にかかる猿小橋にさしかかった。」
「向うの西たもとは、右が幕府の御樅蔵。左は深川・元町の町屋」
「猿小橋から東に進むと、藤堂和泉守・下屋敷につきあたり、右に折れ曲がると、小名木川の河岸道となる。」
「すぐに小名木川と横川が十字に合う地点へ出る。
横川に架かる猿江橋を渡ると、河岸道の左側に若林屋敷の長屋門が見えた。」~
~池波正太郎『待ち伏せ』~
男谷先生墓参の帰途、昼食に深川めしを頂きました。
~さて、汁かけご飯のなかでも長い歴史を持つメニューがある。深川めしだ。江戸の深川浦(江東区永代・佐賀周辺)の漁民が、船上でアサリと長ネギを炊いた汁を冷や飯にかけて食べたまかない料理がそのルーツとされている。~
”おみねは夕餉の支度にかかり、たちまちに大治郎へ膳を出した。
その支度があまりにも早かったので、大治郎は遠慮をする間とてなかった。
いまが旬の浅利の剥身と葱の五分切を薄味の出汁にたっぷり煮て、これを土鍋ごと持ち出したおみねは、汁もろとも炊きたての飯へかけて、大治郎へ出した。
深川の人々は、これを「ぶっかけ」などとよぶ。
それに大根の浅漬けのみの食膳であったが、大治郎は舌を鳴らさんばかりに四杯も食べてしまった。—”
~池波正太郎『剣客商売』シリーズの『待ち伏せ』より~
令和7年4月27日、深川の増林寺にて当流第十三世、男谷下総守信友(精一郎)先生の墓参をしました。
武士の世から、庶民の世へ。世の中の価値観が大きく変わり、多くの血が流された幕末維新。その激動の時代の中で、最後にして最強の剣客といわれた榊原鍵吉。時代の荒波にもまれながらも、剛直に剣一筋に生きた生涯であった。
鍵吉の番である。この朝、心にかけた下谷西町の刀屋佐野屋鈴木万蔵の届けてくれた胴田貫で鍵吉は少しも力まず、悠々たる態度で見事に三寸五分斬り込んだ。
明治天皇も思わず、
「あっ」
とお声を出されたという。道場の門人たちは、みんな手を打って雀躍した。
鍵吉は、
「おれも年だね。もう二度と兜は割れねえよ」
にこにこした。
~遺臣伝~
2025年3月2日、新宿須賀町西応寺にて、当流第十四世榊原鍵吉先生の墓参をしました。
2023年12月3日
有志で武士の理想像を追い求めた江戸時代の剣豪・平山行蔵先生の墓参をしました。
杉並区永昌寺にて。
主藤金八がさりげない口調で、
「江戸の道場では昨今、竹刀と防具を用いる稽古が主流のようですが」
平山の眼が光った。
主藤は、相手の逆鱗に触れたと思った。もちろん、計算通りである。
平山が吐き捨てるように言った。
「あんなものは、板の間剣術です。竹刀踊りと言ってもよろしい。実戦では物の役に立ちません」
江戸時代、天下太平の世に馴染めない平子龍先生こと平山行蔵は、平和ボケした武士たちに喝を入れるべく、道場を開いて文武両道の道を極めました。
剣術を極めて「講武実用流」を興したのをはじめ、居合、槍術、馬術、弓術、柔術、砲術、兵法、儒学に農政学、土木学まで…偏屈ながら優れた弟子にも恵まれ、”あるべき武士の理想像”を共に追求するのでした。
「べらぼうめ、どいつもこいつも軟弱でしょうがねぇ。これじゃあご公儀のお役には立てねえよ!」
「べらぼうめ…武士たるもの、いつなんどき主君のお召しがあろうと御奉公かなうよう、つね日ごろから文武に精進せねばならぬ!」
日ごろの稽古内容です。古流は基本的な素振りをすることで、しなやかで強い打突を可能にし、ぶれない基軸。体幹を強化します。
打込みは相打ちを通じて間合(剣先三寸)の感覚を磨き、合気により実践に於てどのような局面にも対応できる捌きを養成します。

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第九回殉国七士六十烈士戦没者慰霊演奏会 奉納演武
令和六年十一月十一日 於靖国神社
愛する祖国、愛する家族のために命を懸けた英霊の方々へ畏敬の念を込めて奉納させて頂きました。戦後79年の今、改めて思う。惻隠の情、やむに已まれぬ大和魂。武士道とは。

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