剣の大道

古来文武両道と称せられ、剣道は心身修養、人格陶冶の大道とされてきた。尚剣禅一致とか、神武不殺とかの語の示す通り、剣道は仏教、神道と究極に於て一理にして、同じ高嶺の月を見るものである。剣道は生死に直面して一瞬に生か死に岐れる真剣の修業で修養の近道である。
従ってスポーツとは自ら趣を異にし、勝負を競い技術を磨くとか、単なる体位向上とか意志の鍛錬とかを目的としたものではない。


(一)赤子の心

各人に包含する天性即ち明徳を発燿し、徳器を成就する道が剣道である。
純真な心、天真爛漫、ただ自己のありのまま純な心、すみきった、はりきった、傲ることなく謙ることなく、少しも偏癖のない天空晴れ切って一片の雲もない、大海堪えて微波もない、春の野にただよう春霞のようなふんわりした豊かな心、この純な心が剣道修業の基となる心でもあると共にまた修業の窮極の心でもある。剣聖の心境と赤子の心とは相似たるすがたである。

◼︎大胆不敵(不動心)
「思いなく又恐れなき心あらば 虎さえ爪のおくところなし」(伝書より)
事に臨んで心を動かさぬよう心懸け、剣道稽古の際、刺撃の間に精神の動揺、気合の喪失せぬように努め、進んで日常生活に際して如何なる困難にも敢然として喜び迎えるように実践する。
生死の巌頭に立ち白刃を振りかざして果たして心気の転動することなく、平生と少しも変わらぬ心で対処できるかと反省工夫を重ねていくと何時とはなくこの境地が打ち開けて不動心を体得するものである。

◼︎純真無垢

剣道にては敵(相手)を賓客のように迎え心を尽くして相対するもの。相手を恐れたり、侮ったり、打ち勝とうとか、負けまいとか一切思はず気力を充実して清明心を以て相対するのである。否一切の物事、人に対して尊敬し至誠を尽くす純真無垢の心を磨くことが剣の大道である。

◼︎直観力
剣道は真剣味を以て必死三昧の稽古をするとき、すばらしい直観力が出て来る。剣道の修業は気・剣・体一致の錬磨である。気付くとすぐする。目が覚めるとすぐ起きる。思う事はすぐ実行し、思ったことはすぐ云う。言って無駄なことはすぐ思いを棄てる。日常も道場修業と同様に心得て日々雑念をすてていくと、この直観力が強く出て来る。
直観力は無限に発達して神通力とも云うべき偉大崇高な偉力を発揮するものである。

◼︎感応力
至純至誠を竭して物事に打ち込んで行くと、偉大なる気魄、感応力が養われて行くものである。真剣な気持ちで剣道を修業して行くと、人に感動を与える精神的貫通力が養成される。

◼︎智識の湧出
人が至誠を竭して物事に没頭して努力すると、この大知識が発現して来るのである。生死の巌頭に直面し必死三昧の修業である剣道もこの境地に達する近道である。

◼︎無限力
昔両国橋を一呼吸で渡り得てこそ初めて武芸者と云われたものである。
恐れ、怨み、哀しみ、不平、煩悶の情が心に起きると呼吸が乱れる、感情が高まると呼吸も急迫し、肩の息となる。情静まり気穏やかになると呼吸も平静となってくる。
撃剣が剣道となったのは阿吽の呼吸を手に入れて道となったのである。剣が術から道になったのは実にこの呼吸法の修練によるものである。(山田次朗吉「日本剣道史」)
古来神社仏閣の入口に高麗犬をおき、仁王を置いて、一方は「アー」と大きな口を開き、他方は「ウン」と口をむすんでいるのは阿吽の呼吸を象徴し、これが本殿、奥院の入口であることを象徴しているのである。「アー」の息を吸い入れて、天地万象あらゆるものを吸い込んで自己と一体となり、「ウン」と息を吐くとき、身も心も全じ部吐き出して、自己が宇宙一杯に広がって天地と一体となる。
阿でも吽でもないその中間、呼吸のとまっているときが神なり仏なりで、人が至誠を竭して神仏に祈りを捧げるときは息はとまっている。至誠無息=即ち神人合一の境地であり、天御中主神であり、天井天下唯我独尊の悟りの境地、隻手音声であり、無の実体である。この天地の精気を吸い込んで神に通じ、神我融合の妙境、無念無想の境地に霊感が生まれ、その実行の結果が奇蹟である。
この無念無想の心境に投影する第一感を捉えて動じないとき、思いもよらぬ霊力が湧き起り、偉大なる無限の本源と直流して奇蹟を生じ、或は危難を突破して九死に一生を得、妙策をたて、妙手を打ち、奇蹟を生ずる。
古来わが民族が古事記、日本書紀に語りつぎ、云い伝えられてきた種々の奇蹟はこの理を実践した結果である。

◼︎尊厳性
人も世に立ち、この威徳が具備すれば、接する人々は、其の全貌が見透せるので安心して親交し、断じて侵すことも侮る事もなく、皆味方となる。是を無敵の位という。
剣道家が気・剣・体の一致の修業を積み、姿勢を正し心気を清明にするよう行住坐臥修養にいそしむと、身体に剣気がにじみ出て荘厳さを漂わせる。
尊厳さ、威風は姿勢を正し、呼吸を調えて、胎息(腹式呼吸)をなし、気海丹田に充実して行くと、内臓の働きが旺盛となり、邪念妄想が去り、精神作用が正純となり、判断を誤らず、威厳が次第に身について来るようになるものである。行住坐臥に姿勢を正すことから始めて躾を正し、清明心を保持して行くように心懸けて、胸をはり、ももを高くあげて堂々と歩行し、正坐をして足腰の力を養い、床に入ってからも豊かな思いをし、心を清く正しく足腰に心気を充実し、雑念妄想を排除し、油断なく尊厳さを保持してゆくと、身体に顕現して来るのである。(白井亨)

◼︎自由性
剣道修業は道場内だけではない。平常が道場であり、道場の稽古が平常と同じでなくてはならぬ。平常生活に於て気付いたらすぐ行う。目が覚めたらさっと起きる、思ったことはすぐ云う。言って甲斐なきことはさっと流して忘れる。心中は常に何のこだわりもない。一片の雲もなく明朗闊達、光風霽月、諸事流れる如く処理してあとに残さない。このとき万事が上手く行く。思う事叶わざるなく、孔子の所謂心の欲する所に従っての矩を踰えない自由境に到達する。剣道で云えば活殺自在、無碍の心境に到達する。淡々として神武不殺の境地ー大自由境が現出する。

◼︎還元性(恩、報徳)
剣道修業に於て道場に神棚を設け、稽古の前後に拝礼し、師を尊敬する。師を尊敬すればする程上達し、遂には師の一切の才能智能を我が身心に受入れることが出来る。日常の動作を初め、心境までも次第に似て来る。尊敬こそは上達の秘訣である。

◼︎愛情(慈悲)
還元の逆が愛である。慈悲であり、万人共通の天来の徳性である。母性愛を中心とする家族制度の中に育成せられた日本民族は世界に冠たる日本刀を創り上げた。凶器は宝器へと向上した。これを使うもの亦殺人剣を活人剣と変じた。遂に無刀にまで躍進をしたもとは至純な愛情である。

◼︎赤子の心の中には、不動心、純真無垢、直観力、感応力、大智識の湧出、無限力、尊厳性、自由性、報恩どくとく、愛情の十の素因を包含している。
この若芽を育成する道には、剣道が近道であり、日本民族が築き上げた独特の大道であると確信する。心のふるさと、万人の本性の中に以上の雄大荘厳、玄麗妙なる本質を内包している事を自覚し、育成に努めて行きたいと念願する次第である。

剣道について

剣は人なりという古語がある。心は形に現れるから、心正しからざれば剣亦正しからずと言われている。人の日常生活や徳性品格又は癖等一切の心性が剣に現れる。凡ての道は礼に始まり礼に終わり、その窮極は宗教に突入している。従って凡ての道を修め励んで行けば次第に悟りの境地に到達して安心立命の心境に到るのである。
剣道は一切の修養や修業の最も近道であるとされてきた。然るに他面に於て暴力を振い人から嫌われ軽蔑せられる剣客も存在するが。本来剣は英雄の学なりと称せられる正道であり人道の極致であるべき筈のものが、正しい剣の大道から離れ勝敗を争い技術の末に走り心を磨く本筋から離れるからである。元来勝負はない。勝を求めずして勝つことが自然であり当然である。撃てば響きあり、立てば影ありで、鉄と卵を打ち合わせれば卵は破れてしまう如きものである。
平常純真な心で心を養い克く勉めて行き、邪心、怠け心等不純な気持ちを切断して行くと遂には心の妙徳を自得して剣の道を極める事が出来るのである。
もともと心と身体とは紙の表裏の如く不可分であり一如のものである。依って先ず姿勢を正し呼吸を調え礼を尽くしていくと、心も正しい方向に長養せられる。日常生活を道場の修業と同一な気持ちで律して行くように心懸ける。身体を錬磨し品性を高め高尚優雅な人格と心境の向上に努力するよう心懸ける事が肝要である。日本刀が殺人の器具を超脱して、宝刀となり信者仏閣の宝物とされ、世界に卓越する美術品、芸術品と尊崇せられるように、剣を使い習う人もこれによって心を磨き心胆を練って不動心を涵養し、威あって猛けからざる勇気を養い崇高なる精神を保持する事を心懸け、剣道を通じて大人物とならん事を切望する。
剣道の基本は剣を抜き構えるに始まり、終局も正眼の構えに終わる。我靈を抜き出すように観念して息を吸いながらフンワリと構える。この時静かに息を吐く、全身に少しのこだわりもなく全身の力を抜く。この時全身に天地の精気がみなぎるのである。又この時は相手を意識せず神前にぬかずき合掌する気持を保つ。剣我一体の観から次第に天地と我と一体の観じ来るようになり絶対界、純一界に卓然として超立し神人合一の妙境を体得する。遠く現象界を超出し絶対界(純一界)に突入した心境を味わう。
”剣道は立たざる前の勝にして 身は浮島の松の色かな”


【直心剣道語録】

◼︎清明心を保持し、自然な生活をすることが剣道の要旨であり、理非を決断して邪を去り、澄みきった、はりのある心で事に当たって所信を断行する勇気を養うことが剣道の本筋で、生死を賭けた真剣の修業で、勝を予期せず、負けを思わず、無為豁達縦横無方の大勇を体得するのが剣道修業である。

◼︎剣道は「后来習態を除き、本来清明の恒体に復し、上は神明の至徳、下は勇士の要道によって」日本人伝統の精神を発揮する道である。

◼︎人が生死の巌頭に直面する、即ち剣道の修業は生死ぎりぎりの岐点に立ち、白刃を振って生死を決する際、心気を充実して必死三昧の境地に入り不惜身命の活動をなすとき、偉大なる大我が発動して一呼吸の間に敵を斃す。人生生活の真実充実の極致に直面して発動する叡智こそ剣道の練りどころであると自覚して修業すべきである。先ず神前に座し反省し心境を錬磨することを深く期し、稽古終わりて再び神前に座し反省し心境の向上を期すと云うのが本則である。

◼︎剣道は道場だけの修業ではない。日常生活全般が剣道である。常に大我の心を基として生我を棄て、心境の向上を期していく。平常が道場であり、道場が平常である。戦場が平常であり、平常が戦場である。覚悟を堅持し、平素が臨終であり、臨終が平素であるなら、如何なる変事に遭遇しても平然と対処できるはずである。

◼︎剣は一身一家を治め、治国平天下の大道であり、剣は英雄の学である。人事を盡して天命を待つ処世の大道である。名利、金銭に動ぜず、とらわれざる心境を作り所信を断行する不動積極心を錬成する道である。事に臨み、精神の常を失わず心の動揺を来たすことなく、適時適切なる手段を講ずる活用大なる道である。

◼︎事に臨んで心を動かさぬよう心懸け、剣道稽古の際、刺撃の間に精神の動揺、気合の喪失せぬように努め、進んで日常生活に際して如何なる困難にも敢然として喜びを迎えるように実践する。生死の巌頭に立ち、白刃を振りかざして果たして心気の転動することなく、平生と少しも変わらぬ心で対処出来るかと反省工夫を重ねて行くと、何時とはなく不動の境地が打ち開けて不動心を体得するものである。

◼︎剣道は一生涯の修養道として日常生活を立派にし、平常即道場、道場即平常を油断なく続行し、「人生は一本勝負」であると悟り、悔いなき人生を築き上げ、「生死一如」の悟りの下に必死三昧の覚悟で難関を突破し、成功の彼岸に達する。「不惜身命」の覚悟にて一生涯を通じて、剣道を修業していくことが肝要である。

◼︎剣の修業は不動心こそが究極の目的であり、そのためには平素の行いが正しくなければならない。そしていざというときに臆することなく天命を全うすることこそが生きた剣道である。

◼︎「刺し違えの真剣勝負」この気分を道場外でも活かして行けば、如何なる大事業も果たし得ぬことはない。

◼︎生死の決断を明らめる、その為には生死の中に安住を見つけなければならない。
 
 ~大西英隆先生剣道随筆より抜粋~

当流第十五代 山田次朗吉 『剣道集義』の要旨

  1. 剣道の目的は人格修養にある 
  • 剣道は勝敗や技術の巧拙を競うだけのものではなく、心身を鍛え、人格を高めるための修養の道である。 
  • 礼節・克己心・誠実さを養うことが剣道の本質である。 
  1. 技術と精神は不可分である 
  • 剣技だけを磨いても真の剣道にはならない。 
  • 心の平静、気力、判断力を養うことで初めて技が生きる。 
  • 「心法」が「技法」に優先するという考え方が強調される。 
  1. 古流剣道の伝統を重視する 
  • 江戸期の諸流派の伝書や論説を広く収録し、近代剣道の基礎は古流剣道の精神にあると考える。 
  • 単なるスポーツ化への傾斜を戒め、武道としての本質を守るべきだと説く。 
  1. 実生活への応用を重視する 
  • 剣道で培った精神力や判断力は、学業・仕事・社会生活にも活かされるべきである。 
  • 武士道的な自己鍛錬を現代社会に応用することを目指している。 

一文で言えば、 

「剣道とは単なる戦技ではなく、古来の剣道精神に基づいて心身を鍛え、人格を完成へ導く修養の道である」 


鹿島神傳:流儀が鹿島神宮の伝統武術に由来し、その教えを受け継いでいます。
鹿島の武術は中世以来、多くの剣術(道)流派の源流の一つとされています。
影流:伝承によれば、流祖の松本備前守尚勝が鹿島明神の加護によって「神妙剣一之太刀」を授かったことから、当初は「神陰流」と称したとされています。後に「影」の字が用いられました。
直心:文字通りには「まっすぐな心」「正しい心」を意味します。現在の流名「直心影流」は、一般には「正しくまっすぐな心で神意を映す剣」という理念を表わす名称として理解されています。
流祖松本備前守が鹿島神宮で兵法の巻物を授かり、社前の木の枝を折って木剣とした故事があり、その木剣がまっすぐな「直刀」であったこと、鹿島神の御加護(御影)によって剣理を悟ったことが、「直」と「影」の字に結びつけられていると謂われます。
鹿島神伝直心影流=「鹿島神宮に伝わる武の神伝を受け継ぎ、直き心をもって神の御影を剣に映す流儀」
直き心をもって神意を映し、その理に従って剣を用いる兵法で、剣道・神道・心法が一体となった名称なのです。